水戸幕末争乱(天狗党の乱)

筑波勢行軍経路略図
筑波勢行軍経路略図(天狗党西上之地図)
(小川町郷土文化研究会会長 宮窪弘氏提供)
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 元治元年(1864)3月27日、水戸藩の尊攘檄派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起こった争乱のこと。 天狗という呼び名は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が天保期(1830-44)の藩政改革を実施したとき、改革を喜ばない門閥派が、改革派藩士を非難したところから出ているようで、改革派には成り上がりの軽格武士が多かったから、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられていたとみられる。

 文久3年(1863)3月、藩主徳川慶篤に従って京都に上った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、そこで長州、因幡、備前らの藩士と交わり、いっそう尊王攘夷の志を固めたが、幕府が攘夷を行えという天皇の命令を受けながら横浜一港の閉鎖さえ実行しえないのに憤り、 非常の手段をもって幕府に攘夷、具体的には横浜鎖港の決意を促すべきことを考えた。

 藩地に帰った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘い、また常陸・下野(しもつけ)の間をしきりに遊説して挙兵への準備を進めた。小四郎をはじめとする、尊攘激派、藩士、郷士、神官、村役人ら60余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵、攘夷を唱えて同志を募った。 かれらは、天狗党と称されたが、数日にして150人を越したという。天狗党(筑波勢、波山勢ともいう)は、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を総師とし、4月3日、東照宮参拝のためと称して、下野の日光山へ向かったが、日光奉行がこれを拒否したので、一部の者が参拝したのみで日光を去り、同国大平山(おおひらやま)に宿陣。 一方、門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生(書生)と結んで反天狗派を結成(これを通常諸生党と称する)、藩政の実権を握った。これを知った天狗党は5月末、筑波山に戻った。総勢およそ700人。この間、田中愿蔵(げんぞう)は別動隊を組織、栃木町(栃木市)や真鍋(まなべ)宿などに軍資金を要求、拒否されると放火、700人の罹災者を出したという。

 幕府は天狗党追討の方針を固め、常陸・下野諸藩へも出兵を命じた。市川を陣将とする水戸藩兵(諸生党)も追討に加わり、幕軍・諸藩軍・諸生党は7月、下妻多宝院などで交戦したが敗れ、市川らは水戸城に入って天狗党の家族を虐待した。この頃幕府は田沼意尊(おきたか)を追討軍総括に任じて陣容を整え直し、筑波山に向かった。 天狗党は、攘夷の実行(横浜鎖港の実現)より先に市川らを討って家族らを救うことに決め、水戸城下に入ろうとしたが果たせず、これ以降、府中(石岡市)・小川(小川町)・潮来(潮来町)方面に屯集、水戸周辺で諸生党と戦った。

このような情況を知った藩主徳川慶篤は、支藩の宍戸藩主松平頼徳(よりのり)を名代として水戸へ遣わすこととなり、これには用達(ようたっし)榊原新左衛門ら700人が同 行(大発勢という)、一行には途中から下総小金(こがね)辺に屯集していた士民数千人や、江戸に向おうとして果たせずやはり小金にとどまっていた元用達武田耕雲斎らも合流した。 しかし市川らが入城を拒んだため、頼徳らは那珂湊に移り、小川辺にいた小四郎らも応援に那珂湊へ来た。このため那珂湊では大発勢と天狗党が共同戦線を張り、市川らと対峙するに至った。市川らは田沼の率いる幕軍・諸藩軍の応援を求めて那珂湊を包囲、10月の戦いで榊原ら大発勢千人余が投降した。(頼徳は10月5日、幕命により切腹)。 投降 に反対した耕雲斎小四郎らは脱出、北上して大子(だいご)村(大子町)に集結、千人余の一隊は耕雲斎を総大将として京都に上り、尊王攘夷の素志を朝廷に訴えることとした。 大部隊は、総大将のもと、大軍師(山国兵部)、本陣(田丸稲之衛門)、輔翼(藤田小四郎、竹内百太郎)、天勇隊、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊などを編成、11月1日大子を出立、下野・上野(こうずけ)・信濃・美濃を通り、越前新保(しんぽ)に 至ったとき、 禁裏守衛総督徳川慶喜(水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男)率いる幕府軍の総攻撃のあることを聞き降伏、耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。一隊は慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、2月、耕雲斎小四郎ら352人が斬罪、他は遠島や追放の刑に処せられた。

幕末争乱入門書
 『天狗党の跡をゆく』鈴木茂乃夫著(暁印書館 1983.2)
 『流星の如く』瀬谷義彦、鈴木暎一著(日本放送出版協会 1998.1)

もうすこし専門的なもの
 『茨城県史』近世編(茨城県 1985.3)
 『水戸市史』中巻(5)(水戸市役所 1990.3)

教育学部 鈴木暎一



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