武 田 耕 雲 斎(1803-65)

武田耕雲斎 肖像画(茨城県立歴史館提供)

 幕末尊攘派の水戸藩士。同藩士跡部正続(あとべ・まさつぐ)の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗る。名は正生(まさなり)。耕雲斎は号。9代藩主徳川斉昭の藩政改革の尽力した改革派の重臣。元治元年(1864)2月、伊賀守。3月、藤田小四郎らが筑波山の挙兵したときには時期尚早とこれを諫めたが、10月の那珂湊の戦いから小四郎らと行動をともにし、11月、天狗党千人余の総大将として京都へ向かい尊攘の素志を朝廷に訴えようとした。 しかし、その途中越前新保で加賀藩の軍門に降り、翌慶応元年2月、小四郎らとともに敦賀の海岸で斬首された。墓は、敦賀と水戸の妙雲寺にある。



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