尊 攘 激 派

 幕末水戸藩で展開された尊王攘夷の政治運動の担い手のうち、幕命よりも勅命(天皇の命令)を重んじ、それを奉じ行動した、藤田小四郎武田耕雲斎田丸稲之衛門らとその同志の人々をいう。安政5年(1858)8月、水戸藩に戊午の密勅が降ると、幕府はその返納 を迫った。 このとき、藩主徳川斉昭のもとで天保改革を推進してきた改革派の系譜をひく尊攘派は、さしあたり幕命に従って密勅を朝廷に返納しようとする鎮派と、あくまでこれを拒否する激派とに分裂する。 以後両派は対立をつづけ、激派は桜田門外の変や坂下門外の変をおこし、さらに元治元年(1864)3月には小四郎稲之衛門らが筑波山に挙兵。 はじめこれを時期尚早と諫めていた武田耕雲斎らも小四郎稲之衛門らと天狗党千人余を率いて京都に上ろうとしたが、越前で加賀藩に降伏、激派の主力は潰滅する。


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