在地郡奉行制の意義

小宮山楓軒ら「民富論」による農政の成果

在地奉行制は天保元年(1830)まで続くが、その間農村復興の方向については大きく見て2つの流れがあることが明確となる。まず、小宮山楓軒の紅葉組では郡役所が在地にあり「民富論」による地域住民に密着した、細かな生活・営農指導による下からの改革により、困窮郷の農村復興に成功した。在地郡奉行所の各郡政もこぞってこれにならい指導が行き届き、豊作が数年続いたり、米価が1両に2、3斗にもなる年もあり、戸口も増え田地も開けた。文政3年(1820)、紅葉組では楓軒が離任するときは数千人の民衆が見送り別れを惜しんだという(大内玉江「清慎録」)。

藤田幽谷の「勧農抑商論」の結果

それに比し「勧農抑商論」に立つ藤田幽谷の浜田郡は水戸に郡役所があり、かつ水戸近郊が管轄であったにもかかわらず農村荒廃は一向に好転しなかった。幽谷が文化9年(1812)に藩主治紀に出した意見書「郡中利害封事」では、在地郡奉行制について、郷中の取り締まりはよいが郷民と郡宰に馴れ合いがあり、郡奉行の職務である制令・訴獄より金銭の方に力が入っていると批判した(「郡中利害封事」水戸彰考館所蔵)。幽谷の目指すところは農村の復興というより農村支配の再編成=領主経済の再建にあった。であるから、在地郡奉行制の前進面についてはきわめて低い評価しか与えていなかった。

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