天保改革による在地郡奉行制の廃止

イギリス人船員の水戸領大津浜上陸

しかしながら、文政7年(1824)イギリス捕鯨船員が水戸藩松岡領の大津浜(北茨城市大津)に上陸し水戸藩が兵を出動させた。このため、同年石神陣屋は海防を兼ねて多賀郡大沼村に移され、郡奉行梶清次衛門も海防を兼務した。この事件で、筆談役としてイギリス人船員を尋問した会沢正志斎(せいしさい)は漁民を間に立てなければ対話が成り立たず、民衆がイギリス人に好意を抱いているのを見て、攘夷をテコとして民衆を囲い込む皇国体制作りを目指し『新論』を翌年書き上げた。もとより攘夷論であった藤田幽谷は藩政改革=雄藩化を先行実現させることを通じて幕政改革をめざすようになった。

水戸藩の天保改革

幽谷の死後も藤田派は立原派を巻き込んで改革派を形成し、改革の盟主として斉脩の弟斉昭を藩主に擁立する運動を繰り広げ、文政13年(1830)には新藩主の就任を迎えた。こうして上からの改革路線は既定路線となり、藤田派優位のもとで天保元年(1830)には在地郡奉行制も廃止になり、4郡に合併し郡奉行所は水戸城下に集中させられた。

(石神組御用留研究会副代表・元東海高校教諭 高橋 裕文)

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