石神組における改革の推進

難治の郡政を改善

石神組では訴訟が多く難治とされたが、郡奉行の加藤孫三郎はよく人々の意見を聞き決裁したので訴訟が減少した(「加藤孫三郎墓碑」)。

年貢通帳作りを進める

石神郡奉行加藤孫三郎は、文化3年(1806)10月晦日村々へ触書を出し、収納金穀・指銭などの通帳を村ごとに作り、一般農民から疑念を持たれないようにすることとした。その他、農民一人ごとに年貢・夫金(ぶきん)・雑石(ざっこく)・縄藁代(なわわらだい)・指銭の通帳を作り請取りを記入し、組頭の印を押させることとした(「文化3年村松西方村照沼村兼帯庄屋御用留」)。

村改革への指導

文化2年(1805)2月には、石神郡役所改革懸りでは村改革文をつくり、村方取り直しのため農事出精、倹約、子育、博奕禁制、五人組での助け合い、年貢納通帳の管理、御用人足による郷中普請などにつき指導した(「文化2年村松西方村庄屋御用留」)。さらには、村にも村方掟を作らせた。文化2年8月の村松西方村では、村民一同心を改めて困窮を立て直すため、婚姻、葬式、烏帽子名(えぼしな)開き祝い、富士山行き、節句歳暮の祝い、鎮守祭り、飲酒、身元不明の者の宿泊、宿内火の用心、御用人馬勤め、村普請人足勤め、宿内での商い、御城米金納願いなど冠婚葬祭から村普請、上納まで細部にわたる村掟を作った(「文化2年村松西方村庄屋御用留」)。

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