在地郡奉行制による農村立て直し

農村支配での山横目の役割

水戸藩の農村支配は、郡奉行-山横目(大山守)-庄屋-組頭-五人組-農民 という体制となっていた。このうち山横目は本来御立山(おたてやま)の山林支配の役人で10数ヶ村ほどを管轄していたが、次第に村方の民政も取り扱うようになり、農村立て直しでの中心的役割を果たした。その内容は、①山林管理(実伏、植林、木取り)、②普請(陣屋建設、用水普請、川除普請(かわよけぶしん))、③年貢(小検見(こけみ)御用、年貢催促、指銭(さしせん)節減)、④村政(風儀取り直し、村掛合いの取り扱い、困窮人合力、育子金支給、育子教訓書作成、新百姓取り立て、凍蒟蒻(しみこんにゃく)・紙漉(かみすき)などの産業奨励)などであった。

生活支援資金としての金銭の活用

紅葉(もみじ)郡奉行の小宮山楓軒は寛政11年(1799)12月に在地に陣屋を建て、困窮村の立て直しのため規則を定め巡村し農民に勧農・風儀改革の指導を行ったほか、他領商人の荷を蔵に預かり金を貸して利殖を行い、その利金を貯え農民の救済に使った。これにより農民も農業に出精し生活を立て直すこととなった。その他、御立山の下草刈り・植林の作業では人足に出た老若男女に扶持米でなく現金を支給し、分付山の半金公納を全廃した(「清慎録」)。

民間意見の聴取と郡奉行による訴訟決裁

文化元年(1804)、郡奉行一同は藩に「郷村触案文」につき伺いを立てたが、それは百姓・水呑にまで役所の取り扱いの善悪につき意見を直に出すことを認める画期的なものであった(「御郡方新撰御掟書」)。郷中での掛合い(紛争)については、村役人で取り扱い内済とするようにしたが、内済(ないさい)が調わない場合も多かった。そこで、小宮山楓軒は「村々よりの公事(くじ)訴訟いかなる瑣細(ささい)の事までも一々其願書を見届け、願の口上(こうじょう)聞受てもらす事は無(なか)りし也」と直(じか)に決裁をしている(「清慎録」)。

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