石神組は久慈郡31ヶ村、多賀郡28ヶ村、那珂郡26ヶ村の合計85ヶ村を管轄した(「水府志料」)。ほぼ現在の日立市、東海村および常陸太田市南部、那珂市東北部、ひたちなか市北部を範囲とし、東は太平洋に面し、南北に岩城相馬街道が縦断し、西は多賀山地に懸かり、その南を北西から久慈川が海に流れ込んでいた。久慈川南岸には那珂台地の南東部が広がり一部棚倉街道の宿場(額田村)となっていた。
これらの地域は近世の坂上郷(石名坂以北の台地、多賀郡)・小沢郷(久慈川下流の低地、久慈郡)・野々上(ののがみ)郷(久慈川以南の台地、那珂郡)にあたるが、その特徴は万延元年「東郡田畠耕作方並草木目当書上」によれば次のようになっている。
これを見るならば、石神組の管内では久慈郡は田がちであり、那珂郡は畠がちの農村が多く、多賀郡は農山漁村と宿駅が交錯して分布していたといえよう。