石神郡奉行加藤孫三郎について

石神陣屋

石神組は享和2年(1802)に成立し、陣屋は岩城相馬街道の宿場であり久慈川渡船場のあった石神外宿村の西の塚越に1400坪の敷地面積をもって建てられた(『大日本国誌』常陸国第3巻)。初代郡奉行は岡山次郎兵衛で、文化2年(1805)に2代目の加藤孫三郎が就任した。

郡奉行加藤孫三郎

加藤孫三郎は明和9年(1772)10月29日、水戸藩士加藤泰之の長男として生まれ、名は泰来という。享和2年12月19日に、格式馬廻列、郡奉行見習いとなり、文化2年4月14日には、格式書院番上座、郡奉行となり、以来石神陣屋に8年間勤務した。しかし、在任中より発した病が癒えず文化10年(1813)7月15日に42歳で死去した。(「加藤善衛門家譜覚書」)。その人物像は、墓碑(水戸市酒門共有墓地内)によれば、孫三郎はよく学問武術に励み、父が勘定奉行となっていた時に郡奉行となり父子共に要職に就いたと賞賛された。就任した石神組は85ヶ村で訴訟が多く難治であったが孫三郎は郡政に当たりよく人々の意見を聞いて決裁したので訴訟は減り、藩主より白金を受け褒賞されたという。この墓碑を記したのは年上の友人で同じく郡奉行であった小宮山楓軒で、立原翠軒の子の杏所が墓碑文を撰文しているが孫三郎はその鎗の師匠であった。小宮山楓軒は立原翠軒の弟子であるが、翠軒の手紙が加藤家に多く残されており親しい関係にあったようである。紅葉郡奉行の小宮山楓軒の農政は下から村を立て直す「民富論」でありかなりの成果も上げており、孫三郎もそこから学ぶことも多かったと考えられる。

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