水戸藩の在地郡奉行制の導入

高野昌碩(太田村医師)の提言

このような農政論の中で、寛政11年(1799)6月に高野昌碩(しょうせき)(太田村医師)により提出された「富強六略」は、従来のように郡奉行所が水戸城下にあったのでは、支配地域が遠すぎて郷村の実情を把握できず、水戸と在地を往復する旅費が嵩み、郡奉行を在地に移せば支配が徹底するなどの理由で郡奉行所を管内の農村に置く在地郡奉行所制とするよう提言した。すでに寛政4年から陸奥塙(はなわ)代官寺西封元が在地陣屋に居住し農村再建に取り組んでいることを高く評価しているので、これを参考にしていることが窺える。また、本学の磯田道史准教授は肥後藩の改革が水戸藩改革に大きな影響を与えていることを指摘している。

在地郡奉行制の導入

これを受け、水戸藩は同11年12月には4郡のうち武茂(むも)郡より野々上組(のち八田(はった)組と改称)を、南郡より野分組(のち紅葉組と改称)を分け高野昌碩・小宮山楓軒を郡奉行とし在地郡奉行制が試行された(高倉胤明「水府地理温故録」)。それを踏まえ、享和元年から翌享和2年にかけて次のように全領を11郡に分け(翌年に安良川(あらかわ)組は松岡別高となって独立しため10郡となった)、浜田・常葉(ときわ)組が従来通り奉行所を水戸田見小路(たみこうじ)に置いた他は、すべて在地へ陣屋を建て郡奉行らが居住した。

10郡と郡奉行所の所在地

大子組(大子)、小菅組(小菅)、大里組(大里)、八田組(八田)、鷲子組(鷲子)、
石神組(石神)、 増井組(増井)、紅葉組(紅葉)、浜田組(水戸)、常葉組(水戸)

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