水戸藩の農村荒廃と農政論

水戸藩の農村荒廃

関東の農村荒廃はすでに近世中期ごろより発生しており、水戸藩の場合は元禄期の年貢率の高さが農村の再生産を阻害し、実質年貢率の減少、人口減、土地荒廃の原因となった。人口の変遷では、享保5年(1720)を指数100とすると天明6年(1786)に全国では96・24であるのに対し、関東では85・40、水戸藩では75・15と低くなっている。以後、全国は文化元年(1804)まで90台が続くが、関東は弘化元年(1844)まで80台、水戸藩は元治元年(1864)まで70台とやはり低い数字となっている。また、荒地については、水戸藩では享保以来の荒地・川欠が寛政5年(1794)には合計5万9602石9升4合あり、水戸藩領35万石の17%にも及んでいた(『水戸市史』中巻(2))。

水戸藩での農政論の展開

水戸藩ではこうした農村を立て直そうとして安永~文政期にかけて 「 芻蕘録(すうじょうろく)」(安永2年、長久保赤水)、「勧農或問(かんのうわくもん)」(同11年、藤田幽谷)、「富強六略」(同11年、高野昌碩)、勧農或問批評」(文政末、大内玉江)などの農政論の献策が盛んに行われた。とくに、藤田幽谷の「勧農或問」は、商品経済の農村への浸透により農民が奢侈となり惰農が増え都市へ流入する一方、豪農は貧農の土地を兼併するため貧富の差は拡大し農村荒廃の原因となっているとして、在郷商人の商業活動を抑え農民を農業に専念させる「勧農抑商論」を唱えたが、これは水戸藩政に大きな影響を与え農政の主流となっていった。これに対して、近年、小室正紀氏(慶応大学教授)は民政を担当した立原派の小宮山楓軒や大内玉江などに農民間の自生的な富の形成を肯定する視角があるとし、これを「民富論への模索」と呼んだ(小室正紀『草莽の経済思想』)。

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