「石神組御用留」の紹介

郡方史料としての「石神組御用留」

水戸藩では寛永検地後、領内を3郡から5郡に分けて郡制が行われ、郡(こおり)奉行所は水戸城下の奉行の自宅に置かれていたが、寛政11年(1799)には2郡が任地に陣屋を造り郡奉行が在勤するようになり、享和2年(1802)からは11郡となりうち9郡が在地郡奉行制となった。石神郡奉行所の場合は、石神外宿に石神陣屋が置かれ、初代の郡奉行は岡山次郎兵衛で、その後は加藤孫三郎、川瀬七郎衛門、佐々木彦衛門と続いたが、梶清次衛門の代の文政7年(1824)に多賀郡大沼村に移転し天保元年(1830)に廃止となった。郡奉行からの達しは庄屋が控えを取り、「御用留」として保管しおり、これを村方史料というが、これに対し郡奉行による農村支配を記した文書を郡方史料という(『文献資料調査の実務』)。郡奉行の「御用留」は、水戸藩関係では「紅葉郡奉行所御用留抜書」(茨城県歴史館所蔵)などの抜き書きの写本が残されているが、茨城大学図書館所蔵の「石神組御用留」についてはこれまで一般には知られていなかった。

主な内容

内容としては、郡方の奉行・手代への褒賞、年貢の田畠永引き、廻船・紙漉舟の役金調べ、育子改め、博奕の禁止、90才以上の者の調査、刃傷事件や処罰の申し渡し、稗蔵(ひえぐら)・溜め池(ためいけ)の普請などが記されている。このように、「石神組御用留」は郡奉行加藤孫三郎らが日々の記録をじかに書き綴ったもので、その仕事ぶりが窺える第一次史料として貴重な史料である。

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