「茨城大学附属図書館の郷土史料と郷土史料双書の刊行」

茨城大学人文学部教授 長谷川伸三

1.同志社大学所蔵の茨城県巡査日記

 ただいま紹介にあずかりました長谷川です。どれほど皆様のお役に立つかわかりませんが、私が勉強していること、図書館の古文書のことなどお話ししたいと思います。
 先日学会が大阪の堺市で、地方史研究協議会というんですが、ありまして、それに参加するため関西に参りましたが、この機会に前々からお願いしておりました同志社大学の人文科学研究所というところに、とても私としては関心がある史料がありましたので、それを見せてもらいに参りました。それのコピーの一部がここにあるんですけれども、茨城県の巡査の飯塚源蔵という方がいまして、この人がどこのどういう人なのかまだはっきりつかめていないんですが、大変筆まめな方で明治2年から明治28年位までの間とびとびですが日記を付けていて、その日記帳が全体で5冊といいますが、実質はさらに増えて8冊か9冊になると思います。それが古書店に出たのを同志社大学で購入をしたんだそうです。この日記の存在はたまたま別の機会に知りまして、それで同志社大学の高久先生という担当されている研究所の教授にお願いをしたら、いつでも都合のいい時にいらっしゃればお見せしましょうということなので、大阪の学会の機会に参りました。
 普通はこういう古文書はコピーをしちゃいけないんですけれども、幸いミノルタか何かの大きな新しい機械が置いてありまして、要するに古文書を下に広げて、上から光を照射してボタンを押すとこっちからゼロックスが出てくるというとてもいいものですね。それで拡大・縮小も可能であるし、史料の性質によって濃淡を加減できると、絵画的な史料の場合だとボタンを押せばそれに適したコピーを作ってくれるし、文字史料の場合は文字に適したコピーを作ってくれるというわけですね。そこの先生のお話では、マイクロフィルムでとるのと同じぐらい光は当たりますし、開けていきますので史料は全然傷まないとは言えないけれども、マイクロフィルムでとるのと同じぐらいのことで済みそうだから、今後特に貴重な史料はともかくとして、一般の古文書は外部から来た方にもこれでとってもらうようにしようと思う、と言っておられました。それでコピーとらせてもらったわけで大変助かりました。というのは、マイクロフィルムでとりますと実際に自分でとる場合もありますけれど、普通は業者さんにお願いするわけですね。そうするとある程度時間がかかりますし、焼き付け料等で多少費用がかかります。今言った機械の場合は、自分で広げながら例えば貼り紙などがあれば「ここは貼り紙があるんだ」ということを記憶にとどめつつ、あるいはメモをしながらやっていけますので大変助かりました。今後こういう機械が普及するんではないかと期待する次第です。
 それはともかくとして、こういう史料があることを知りまして、その所蔵機関にお願いをして閲覧ができる、あるいはそのコピーを作成することができるということは大変研究者にとって嬉しいことです。 おそらくこれだけの貴重な史料が、もし茨城県内の古書店などに出た場合はどこも見逃しはしなかったでしょうけれども、やはり東京の古書店に出て、それが東京では売れなくて関西の市場に流れて、そこでたまたま同志社大学が気づいたということなんですね。
 なぜこの史料が重要かというと、明治2年から20年代にかけて巡査をした方の日記であるだけでなくて、ここに明治9年1月1日って書いてありますけれども、実は明治9年の12月に、那珂郡でいわゆる地租改正反対一揆とか、あるいは那珂暴動と呼ばれる大きな農民一揆が起こっております。その一揆をこの飯塚源蔵という巡査は鎮圧する側で出動しているわけです。しかも一揆の容疑者として捕われた人達の取り調べに当たってるんですね。で、かなり詳しい記録を残しているわけです。普通地租改正反対一揆については、茨城県庁などで作成した記録が残っておりますけれども、鎮圧した当事者の記録が残っているというのは珍しいことではないかと思います。しかもそれが公的な記録ではなくてやや個人的性格を持った記録として残っているわけですね。そういう点でこれはすばらしい史料だと思いまして、私もこれは是非なるべく早い機会に何らかの形で公にできればと思いまして、同志社大学の先生のご了解も得て帰ってきたわけです。

2.茨城大学附属図書館の郷土史料

 それはともかくとして、茨城大学にもいくつかの古文書があります。その概要はレジュメに少しだけ書いておきました。まず茨城大学附属図書館所蔵の古文書というところで、「水戸下市御用留」以下いくつかのものを挙げておきました。それから後で配布した方に史料コレクションと書いてありますが、これは図書館の確か1998年ぐらいの概要の中からこの部分だけ抜き出してきたわけですが、特殊文庫の1の菅文庫については申しあげません。私が関わるのは2の「稲葉家文書」から以下のところですね、「稲葉家文書」「水戸下市御用留」「その他の郷土史料」というところですが、「その他の郷土史料」についてはもう少し付け加える点があるかと思います。
 これらの史料がどういう経緯で茨城大学の図書館に集められてきたかは私はよくわかりません。というのは私は先ほどご紹介があったように、茨城大学に参ったのは1991年でちょうど8年半ぐらい前でございますので、それ以前のことは人づてに聞いたり、あるいはいろいろな形で刊行されたものを見て判断をしたりしているに過ぎないわけですが、やはり茨城大学は地方に立地する大学として、郷土史料についてはいろいろな形で非常に積極的であった時期もあれば、そうでない時期もあったかと思いますが、関わってきたかと思います。
 その中で私も大学院生くらいの頃から茨城県地方の史料調査をしてきましたので、外から見て印象に残るものは、後で配りました資料の右側に出ておるものですね、「茨城県地方史料の印行について」というんですが、これは「第6集木村家史料集」のはしがきの部分ですね、石原道博という図書館長、中国史の研究者だったと思いますが、その石原先生の書いた序文の一部を、たまたま第1集から第6集まで書いてあったもんですからそれをコピーしてきたわけです。この中で第1集と第2集までは史料目録であるというふうに書いてありますが、このうちの第1集は「鶴田家史料目録」です。これは「鶴田家文書」といって現在図書館に収蔵されておるものです。これは那珂郡上河内村で現在水戸市、ちょうど那珂川の向こう側にあたりますけれども、そこの史料です。点数はそれほど多くありませんが、文禄3年の検地帳で、桐の箱に収められた検地帳が含まれております。この文禄の検地帳というのは茨城県下ではあまり多くなく、特に水戸市内ではこの「鶴田家文書」だけですので、いろいろな本によく内容が紹介されたり、分析されたり、しております。石田三成が指揮を執って関東各地の検地を豊臣秀吉の命令でやったわけですが、その時の検地帳なんですね。そういったものを含む史料です。その目録を最初に出しておりますね。
 このシリーズは名誉教授の瀬谷義彦先生が、現役の頃に大学の学生や卒業生を動員して精力的に史料調査を行い、その成果として毎年のように刊行されているわけです。はしがきなどによりますと、後ほど講演なさる鈴木暎一先生の名前も見受けますので、これはおそらく鈴木先生の若い頃にはこういう調査に参加しておられたのではないかと思います。次の第2集と第3集の勝田家というのはこれは史料そのものが茨城大学にあるわけではなくて、茨城県内のまとまった史料がある家を訪ねていって、そこのものを整理したり史料集にしたものなんですね。勝田家というのは私も後に大いに使わせてもらったところですが、真壁郡の大和村、雨引山のふもとにある2軒の勝田家がありまして、その勝田家の目録と史料集なんですね。私もこの勝田家史料集あるいは史料目録については大いに利用させていただいて論文を書いたりもしております。
 奥村家はちょっと今すぐわからないんですけれども、これは県の西の方ですね。それから細谷家と木村家というのはこれも史料集ですが、水府村の天下野と書いてけがのと読むわけですが、天下野村の史料です。この木村家というのは先祖に木村謙次という方がいまして、この人は立原翠軒の弟子で、水戸藩の命を受けて蝦夷地の探索、現在の北海道の探索を2回にわたって行った人なんですね。その一族の子孫のお宅だろうと思います。
 まあそういったものがこういう形で出されておる、だからこういう成果がベースにはあったのではないかと推測しているわけです。詳しいことは私よりもむしろ鈴木先生の方が詳しいんじゃないかと思いますが。そういう過程の中で、そういう史料調査などの中で大学に古文書をお任せしてもよいという家が出てきたようなんですね。そういう家が何軒かあったわけですが、おそらくそういう家々の中でまとまった史料を出された家があって、それが稲葉家と中崎家なのではないかと思います。

3.稲葉家文書目録と河内八郎教授

 稲葉家については簡単には主要コレクションって書いた1−2のところにごく簡単に記されておりますけれども、豊田郡加養村といって現在下妻市ですね、そこの名主の稲葉家から寄贈されたものであるということです。近世・近代の村方史料とか、地主さんだったので地主経営の史料、それから醤油の醸造などもなさっていたようですが、醤油醸造関係の史料など膨大な史料があります。そこに持って参っているんですけれども、その緑色の方が稲葉家文書目録というもの、これを作られたのは私の前任の河内八郎先生です。河内先生が1984年から、1集から5集までありますので、5年間にわたって目録を附属図書館から刊行しております。この後書きなどから判断をしますと、毎巻河内さんが情熱を込めた後書きを書いているわけですが、第1冊目の後書きによりますと、目録の刊行のめどが付くまで整理に丸5年かかった、6年目にようやく目録の刊行にこぎつけたと書いてあります。それから以後毎年1冊ずつ発行していって、最後の5冊目が88年の3月に出てますので、さらに5年かかってるわけですね。ですから10年以上かかった仕事であったと言えるかと思います。
 その目録の後書きによりますと、まず第1冊目のところでは稲葉家文書整理の苦労が書かれているわけですが、その中ですでにこの段階で稲葉家文書の一部が、要するに茨城大学に来てなかった分が県立歴史館に収められたということで、河内さんとしてはとても残念であると書いております。それからもう一つはこれも聞き伝えなんですけれども、河内さんが学生達と稲葉家文書の整理に着手した頃には、図書館の中に古文書を置いておく場所あるいは整理をする場所がなくて、整理する時間毎にボール箱を持ってカウンターの後ろの方の空いたスペースを使わせてもらったりして、あるいは人文学部の方の空いた部屋を使ったりして整理を進めていったんだというふうに聞いておりますが、ちょうど83年、この目録が刊行される直前に図書館の増築が実現しまして、貴重図書室っていうか古文書の整理・保存・閲覧のための部屋が開設されます。これは現在もそのまま残っておりますけれども、それでようやくそこで落ち着いて整理ができるようになった、というようなことが書いてあります。
 以下5冊ありますので各冊にその後の経過が書いてあるんですが、その中で二、三問題提起もしております。それはどういうことかというと、古文書の整理は少しでもなさった方はすぐ思い浮かぶと思うんですが、近世の古文書は冊子ものと一枚ものから成り立っていると言っていいと思いますが、その冊子ものの方はわりと表紙に何々って書いてあるもんですから、表紙だけカードにとっていってでも整理がつくわけです。まあ厳密に言うと表紙に書いてあることと中身と一致するかどうかとか、あるいは御用留のような場合には表紙に書いてある年月日と記録されている中身がズレが生じている場合もありますし、その表紙に書いてあるのがその記録の書き出しの年なのか、それとも書き終わった年なのか、それとも何年か後に再整備した時の年なのか、そういうことも見極める必要がありますけれども、ともかく帳面になってるもの、冊子ものは比較的簡単に整理がつくんですが、一枚文書は大変です。これは普通は表題自体があるか、あっても形式的な表題で「一札之事」とかですね、「恐れながら書き付けを以て申し上げ候」なんていうことで、それだけでは内容になりませんので、やはり一通り文章を読んで内容をつけなくてはなりません。さらに、差出人、宛名、年月日なども確定していかなくてはいけないわけですね。これを古文書を習いたての学生にやらせますと、さっき言ったような冊子ものの場合は読めない字を教えてあげればいいわけですが、一枚文書になりますと一通り読まないと要約ができません。そうすると一点やるのに、例えば2時間なら2時間整理の時間を持つとしますと、その2時間に1点か2点終わればいい方なんですね。これは学生諸君でさえもそうなんですが、ベテランの我々がやったとしてもやはり中身をよく読んでからというと、本当に4点とか5点とかしか進まないというわけです。ところが大抵冊子ものよりも一枚ものの方が数が多いんですね。そういうものの困難ということを河内さんは指摘しております。しかし、少なくとも稲葉家文書に関しては、そういう困難を抱えながらも一紙ものの整理を貫徹したんだということを一方では誇りを持ちつつ述べておられます。
 それから次に指摘してる点は、整理された文書というものは原形と異なる形になってしまうというわけですね。本来古文書というのはそれぞれ名主を務めたり、問屋を務めたりした家の蔵などに半ば整理された形で、あるいは整理されない形で置かれてるわけです。ところがそれを我々が整理をしてしまいますと、一点ずつ封筒に入れてそこに表題をつけて、さらに番号をつけて分類した番号に基づいて配架するわけですね。そうすると、個々の史料の姿というものが見失われてしまう、ということを河内さんは一方では危惧しておりました。だからもちろん整理された目録でどれどれという文書を取り出してみて、袋から出してみれば本当の古文書が現れてくるんですけれども、しかし、それは本来古文書が保存されていた状態とはだいぶ違うわけですね。ですから、やはりそこを今後考える課題があるのではないかと思っております。ちょうど図書館で開架式が普及しておりますけれども、開架式の場合には、閲覧者が自由に書架の間を歩いて回って、本の形から見て「あ、この本は面白そうだ」と、要するにタイトルだけじゃないんですね、本の形で見て「この本は是非読んでみよう」とかあるいは「同じシリーズの本がこことこことここにある。じゃあその3つを別々の場所から出してきて比べて読んでみよう」というようなことになるわけですが、今言った古文書についてもですね、整理されて分類されて袋に詰められあるいは箱に詰められて所蔵されておりますと、なかなか元の形がわかりにくくなるということですね。これは理想をいうと、やはり開架式の史料保存庫のようなものがあって、同種類の帳面は同じ所に重ねてあると、御用留なら御用留で重ねてある、というようにしてあればいいんでしょうけれども、なかなか現状ではそれだけのスペースを取ることも難しいし、それから史料の保存とか閲覧の問題もありまして、どうしてもどこの史料所蔵機関でもあるいは図書館でも、郷土史料というのはどうしても整理がつけば袋に入れて番号順に並べるということになってしまうと思うんですが、まあそういう点を今後解決しなくてはいけない問題として指摘しておられました。
 この解説というかあとがきも第5集が1988年3月になります。第5冊目ぐらいになりますと、河内さんの最初の意気込みとともに、ある意味でのぼやきというかむなしさというか、そういうものをあとがきに表明しております。まあそれはともかく、古文書というものにほとんど触れたことのない、それから漢文や古い文字や文章に慣れていない学生に毎年基礎から古文書の読み方を教えて、それで何とか史料目録の作成に役に立つようになったところで卒業していくと、そういう場合にですね、そういう古文書を扱う勉強というのはどの程度その卒業生自身にとって使える学問として生きていくのだろうか、そういうことについてかなり懐疑的になっているようですね。それから史料整理が大変難航して毎年1冊は史料目録を刊行しなくちゃいけないということで、ところがその作業のおそらく90%以上が河内さん自身に覆い被さっていったんだろうと思います。最初のうちは附属図書館の職員の協力も得られたけれども、後半は図書館の方もだんだん忙しくなってそういう余裕がなくなってくる、という中で、初心者に近い学生達のお尻を叩きながらやっていくと、それでも不十分なところは自分がやるというような形でやっていたものですから、そういう苦しさ、悲鳴というようなものが第5集にはかなり表明されております。しかし、ともかく稲葉家文書の少なくとも茨城大学の図書館にある分については整理と目録を完成したんだという誇りも感じられます。
 最初は8000点余りと予測されたものであったんですが、整理が終わってみますと、整理番号からいくと6036番になるそうです。枝番もありますので、点数としては9193点であると記録されております。
 河内さんはこのあと引き続き下に書いてあります「水戸下市御用留」、これの刊行に取り組もうとしていたようですが、実はおそらくこの頃から河内さんは病気にかかっておられまして、確か90年の5月始めに亡くなられております。河内さんの話はだいたいこれくらいにしておきますけれども、稲葉家文書というのはそういう形で整理が完成しております。目録も刊行されておりますのでいつでも、といっても一般の図書館の郷土史料のように閲覧の体制が整っているわけではございませんけれども、いつでも大学内外の方々の閲覧に供せられるようにはなっております。

4.水戸下市御用留の刊行

 その次は「水戸下市御用留」について少しお話ししたいと思います。「水戸下市御用留」は、レジュメの下の方に「郷土史料双書の刊行」ということで全9冊の予定という形で書いてありますが、刊行は91年3月から始められております。これは実は先程述べました河内八郎先生が、主に自分の授業の古文書演習の一環として学生達にその御用留の一部を、マイクロ写真に撮ったんだろうと思いますが、それを引き伸ばしてコピーを作りまして、それを学生に持たせて「原稿用紙に書いてらっしゃい」というふうに宿題として出して、それで返ってきたものを添削をするという、そういう形で原稿の作成をずっと心がけていたんですね。亡くなるまでに全8冊のうちの全て、もう下原稿が大体できておりました。それをここにおられます人文学部助手の木戸之都子さんが図書館の事業の一環として刊行を推進して下さったわけです。私はおそらく第2冊目あたりから、あるいは第3冊目かちょっと覚えてませんが、校正その他に協力をしまして、ともかく息を抜かずにやろうということで、第7冊まではほんとに毎年やってきたわけです。第8冊だけは間が1年開いてしまいましたし、現在は第9冊目の総目録で完結をしようということで、その準備に取りかかっております。
 中身はどういうものかというと、これはこちらの史料コレクションの方にちょっと書いてありますが、本町の町年寄や町名主を務めていた佐藤家で作られた記録です。この史料もかなり数奇な運命をたどって茨城大学に入ってきたんですが、やはり古書店に売りに出たそうです。それを山形大学の図書館が購入したけれども、どうも中身が山形県とは関係がないということがわかりまして、ちょうど当時文理学部だったと思いますが、木戸田四郎先生がおられて、木戸田先生の方に茨城大学で引き取ったらどうだろうという話があって、その詳しいことはよくわかりませんが、茨城大学の方に譲ってくれたということなんですね。
 これが「水戸下市御用留」です。残念ながら慶応2年って書いてありますけどこれはちょっと間違いでありまして、延宝5年から天保の始め、天保4年12月で終わっております。この片割れかどうかわかりませんが、県立歴史館の方にやはり明らかに水戸下市の御用留と思われるものが幕末期のものですが入っております。ただ県立歴史館の方では「紅葉郡役所御用留」というタイトルで処理しておりますので、紅葉郡役所というと普通は現在の鉾田町の方に置かれた小宮山楓軒が郡奉行を務めたりした所ですので、そちらの方の水戸藩領でも村方の御用留ではないかというふうに表題からは判断されがちですけれども、中身は明らかに水戸の下市か上市か、おそらく下市だろうと思いますが、御用留です。まだ私はこの茨城大学にある御用留と歴史館の御用留との相互関連をまだ十分検討しておりませんので、結論は差し控えさせていただきますけれども、そういったもので関連史料もありますので、おそらく水戸の城下町のことを研究するうえでは今後とも必要不可欠なものになっていくのではないかと思います。これは先ほども言いましたように河内さんがある程度下準備をしておいて下っていたものですから、それを木戸さんや私が今一生懸命活字化してきているということで、あと一歩で完成しそうです。
 その他の郷土史料としてめぼしいものだけお話しをいたします。「鶴田家文書」については先ほど申しあげたので止めておきますが、これはやはり水戸藩領のそれでかつ水戸市内に位置する貴重な村方史料である、ということがいえると思います。
 それから「大高氏文書」というのがこちらのレジュメの方に出てますが、これは上市でやはり町年寄などを務めた家ですが、薬屋さんをやった家だと思います。この「大高氏文書」は茨城大学にあるのは写本でありまして、読みやすい楷書で罫紙に綺麗に書いたものです。「大高氏文書」の原本は東京大学史料編纂所にありまして、それを基にした写本であるということですね。まあ写本も読みやすいし、一定の基準で写本が作成されておりますので、その目的によって見れば大いに役にたつ史料ではないかと思います。しかし、原本そのものではありませんので、今のところ複刻をする等の計画は立てておりません。
 次に「青山延寿日記」というのがあります。これはですね横半帳で、横半というのは半紙をこういう風に折ってこう綴じてここに書いてあるんですが、31冊あります。これは有名な社会運動家であり婦人運動のリーダーでもあった山川菊栄さんが寄贈して下さったものです。先ほど鈴木先生にうかがったら「私は全部目を通したよ」と言っておられましたけれども、まだ活字にはなっていないようです。原本を見ますと主な記事に朱が入れてあるんですね。特に幕末の水戸藩争乱というか、水戸藩が天狗尊攘派と諸生派に分かれて血みどろな戦いをしますけれども、その前後の記事もあります。まあ青山延寿という人自身はどうもそういう水戸藩争乱からは一歩距離を置いた立場にいたみたいですが、それだけにある程度冷静にそういう事件を記録していますね。そういう主なところにあるいは主な人の名前のところに赤い線でマークがしてあるんですね。これはおそらく研究者がそういうことをすることはまずあり得ませんので、おそらく所蔵者である青山延寿さんかあるいはその後の人ですね、山川菊栄さんは青山延寿からいうと直系の孫に当たるんですが、あるいは山川さん自身が『幕末の水戸藩』というような素晴らしい本を書いておりますので、そういう過程でこの「延寿日記」に目を通して、これはというところに朱を入れてるのかもしれません。これもなかなか貴重な史料ですので、将来何らかの形で公にしなくてはいけないとは思っております。

5.中崎家文書の整理

 それから次の「中崎家文書」ですが、これは今、学生諸君と一緒に一生懸命目録の作成に努めております。その目録が今1冊しか出ておりませんがそこに置いてあると思いますけれども、かなり膨大な史料でありまして、これも河内さんが相当程度整理をしておいてくれたんです。それを我々今再点検する形で整理を進めております。
 幸いなことに最近パーソナルコンピュータが大いに発達をしてまいりまして、いいソフトを使いますと、昔と比べると古文書の整理自体は大変なんですけれども、古文書の目録の作成は楽になるということが言えると思います。要するにパソコンに年代であるとか、表題とか分類等を入れていくわけですが、もちろん入れる文字については正確に読んでいかなければなりません。パソコンといえども間違った文字で入力すればいつまでもそれが生き続けるわけですから、もちろん訂正することはできますけれども。例えば年代でも我々のやり方でいきますと、元号と年とそれから月ですね、月が12か月の他に近世では閏月というのがありますので、閏月の欄も作ります。それから日がわかれば日を入れるわけですね。それから元号と年に相当する西暦も打ち込んでおくわけです。そうしますと、例えばアトランダムに目録を入れていったとしても、後でソートをかければ西暦で古い順なり新しい順にずらっと並んでくれるわけです。もちろんそれを月とか日にも及ぼすことができますから、年月日で古い順から新しい順に並べることもできます。それから、分類を番号で決めておきさえすれば特定の分類のものだけを取り出すこともできるし、さらに目録の中に入っている特定の文字、あるいは文字の組み合わせでもって検索したりすることも可能です。まあそういうことなので、パソコンをなるべく活用して現在「中崎家文書目録」の作成を進めております。
 中崎家というのはどこにあるかというと、那珂郡鹿島村です。近世では中岡村と言っていた時期もあるんですね。幕末期に他の村と合併をしまして鹿島村となったわけです。現在は那珂町に入っております。鹿島村自体は現在瓜連町と那珂町と両方に分かれているんですが、鹿島村のうちの旧中岡村に相当する部分はほとんど現在は那珂町側に入っております。この中崎家はやはりこの地域有数の地主だったと思います。このあいだ所蔵者の家をお訪ねしていろいろうかがったり、お屋敷の裏手のお墓などを見学したりしたんですが、現在のご当主のお父さんに当たる方は、確か判事というか司法界で活躍をされていたんですが、そのまた父親が亡くなったので水戸に戻って参りまして、それで茨城新聞や現在の茨城高校などの経営にあたったということです。
 ここであと一つ申しあげたいのは、実は中崎家文書の整理を進めていく中で、こういうことが出てきました。中崎家文書の片割れがなんと教育学部の方にも所蔵されていると。同じ家の古文書が同じ大学の片一方は図書館にあって、これは一応ある程度整理が進行している、片一方は教育学部の研究室にあるというんで、これはやはり外から見たらおかしいということになると思うんですね。それで、このことについては学生達の後押しもあったんですが、ぜひ鈴木暎一先生の研究室にあったものですから、鈴木先生にお願いをして、できれば合体させてもらえないかというふうにお願いをしました。そうすると鈴木先生は、これは実は自分の先生でもあり前任でもある瀬谷教授から預かったようなものなので、瀬谷教授の了解を得ないとそうすぐにはいかない、というところだったんで、それじゃ瀬谷先生の了解をぜひ得て下さいということでお願いをして、多少時間がかかりましたけれども、両先生の快諾を得ることができまして、一昨年でしたか、そっくり図書館に運ばさせてもらいました。
 ところが、こちらの方はボール箱10箱ぐらい、大小いろいろなボール箱に入ってましたけれども、一枚文書が圧倒的に多くて、一枚文書は先ほどの河内先生の苦労話の中にもちょっと出てきますけれども、一点ずつを整理するのが大変なんですね。お預かりはしたもののどうも私の在職期間中にどの程度整理できるかは疑問なんですけれども、ともかく同じ家の文書でそのお家のご厚意でもって茨城大学に譲っていただいたものが、図書館と学部の両方に分かれてるということだけは避けることができたと思います。まあ、手の着けられる範囲からぜひそちらの方も分類を進めたいと思います。一応出所が違うもんですから、元は中崎さんなんですけれども、我々としては中崎家文書のIとIIというふうに分けまして、Iは図書館に前からあったもの、IIは教育学部から移管していただいたもの、ということで分類をしようとしております。現在附属図書館から郷土シリーズとして出した「中崎家文書目録」のIの1というのは、実は本来図書館にあった方の約3分の2ぐらいということですね。
 その他にまだまだあるんですけれども、重要なものとしては「結城町文書」というのがあります。現在の結城市の町方の史料がですね、おそらく町名主クラスの方の家の史料が、ちょっと旧蔵者がよくわかりませんが少しあります。これは目録が大体もうできております。あと「軍司家文書」というのは、これは水戸の商家のものがあります。
 それから最近、私自身の考えから言うと、図書館に前々から所蔵されている古文書については今後とも大事にしてそれを整理し、あるいはその一部を活字にし、あるいは目録を作成して大学の内外に積極的に公開すべきであるというふうに考えておりますけれども、しかし、あまり古文書をどんどん大学が集めることには、私は賛成ではありません。なぜならば、やはり大学の図書館には別の主たる目的があるわけであって、古文書のことばかり面倒は見てられないというのが現状だと思いますし、古文書というものはなかなか保存には設備を考慮しなくてはいけない面がありまして、換気とか温度、湿度などを十分にコントロールしないとどんどん痛みが進んでしまうものなんですね。
 それからこれは河内さんが強調してますけれども、古文書というものはその文書が作られた現地に置かれてこそ意味があるんだという、そこを離れる途端にですね、価値が減少するんだ、まあ価値が減少することはないと思うんですが、やはり文書というものはなるべく現地保存が望ましいということなんですね。現実には現地保存ができなくて、さきほどの飯塚源蔵という巡査の日記のように、古書市場を放浪したあげくに京都の大学に入ってしまうというようなこともありますので、そういうものは見逃すことはできませんけれども、なるべく私は現地所蔵、あるいは現地の原蔵者の家ではもう保存したり公開ができないということであれば、なるべく現地の公立図書館なり、あるいは現地の自治体が作った歴史民俗資料館とか古文書館とか、そういう所で保存されて公開されるのが、私は文書のためにも一番いいのではないかと考えております。しかし、そうは言っても、たまに古書市場などに思いがけないものが売りに出されたりします。たまたま研究費等に余裕がありますと、やはりつい手を出したくなります。

6.小沼家文書の入手

 次に書いてあります「小沼家文書」というのは大洋村の旧汲上村のものだと思いますが、これは実はそういう形で古書市場に出たものなんですね。学生がある時「先生、古本屋さんに古文書が出てたよ」と言うんですね。で「どんなものだ。よく見てきてくれ」と言ったんですね。そうしたら「ともかくボール箱に入って、何万とか値段が付いてた」と。中味をほとんど見れなかったそうですが、私も自分の目で確かめようと思って行きましたら、確かに出てました。値段も大した値段でなくて、ボール箱1箱、ちょうど手頃な大きさなので、これならば私の研究費でも買えるから買って、学生達の古文書整理の練習の一つは材料として、もちろんそれで整理が終わったらば他の中崎家文書などと一緒に保存公開しよう、と思ってその古書店主に交渉をしました。そうしたら「同じ家の文書があと3箱あるけれども、そちらの方が値段がぐっと高くなって、合わせて何十万だ」と言うんですね。びっくりしましたけれども、ともかくその時それだけの予算がたまたま自由になったものですから、20何万でしたか、図書館にお願いをして研究費で買っていただきました。これが「小沼家文書」なんですね。
 これはやはり地元で研究している方にすこし聞いたら「欲しかった」と言ってましたから、やはり地元に全然知られてなかったわけじゃないんですが、何らかの都合で流れ出たんですね。最初その店の店頭に置かれていたものと奥のものとはだいぶ値段が違うんですが、量的には同じだし質的にもそんなに差はないのですけれども、古書店にそれを聞いたんですね。外に出ていたのが3万だか5万ぐらいでしたか、奥の方が3つで20万ぐらいだったんですね。だから「どうしてそんなに違うんだ」と言ったんですが、「出所が違う」としか言いませんでした。
 今学生達に少しずつ整理を進めさせているんですが、ただ最近、学生諸君の間に強く影響をおよぼしているのは、古文書はあった状態を生かしながら整理しなくてはいけない、こういうのを「現状記録主義」というんだそうですが、現状記録主義というのが近世史の研究者の間でかなり広まっておりまして、その現状記録主義で先生整理しなくちゃいけませんよ、って言うんですね。だけれどもそうは言ったって、昔は近世文書を借りてきても、整理を引き受けて借りてきた場合なんかは、ボール箱1ぱい分をひっくり返して、それでわかりやすいものから引っぱり出してはカードを取ったり封筒に入れたりしたんだから、現状記録もへったくれもないと。だいいち古本屋さんで4つの箱に入れてきたこと自体現状とは違うんじゃないか、と言うんですが、なかなか学生諸君は言うことを聞きませんで、「先生そんなこと言うからね、いい研究ができないんだ」と。やっぱりボール箱に入っていたものでも現状は現状なんだから、その箱に入ってるものを上の方から1点ずつ、箱に一応北と南と東と西を決めるわけですね。東向きの一番上にあったものが1号、その次が2号というふうに少しずつ引っぱり出して取っていくわけですね。ある程度進んだらその場所を写真に撮ったりスケッチをしたりして、それからその次の所に入っていく。そうすると例えば、こういう冊子のものに一枚文書がこんな形で挟まってたとしたら、これとこれは関係があるかもしれないし関係がないかもしれない、ともかくそういう状態で入ってたんだからまずそのまま記録にとどめて、それからこの両者を分離しない形で同じ袋に入れておいて、後でじっくり両者が関係あるか関係ないか考えるべきだっていうんですね。そういうことやってたらどのくらい時間がかかるかわかりませんけども、まあそれも一理あると思いますので、学生諸君の主張を受け入れつつ進めているのが現状です。ですからこれまた私の退職までに間に合うかどうかわかりませんけれども、「中崎家文書I」と「小沼家文書」ぐらいはなんとか整理を済ましたいと思っております。
 その他にもいろいろありまして、「中崎家文書」を教育学部から移管していただく時に、もう一つ羽部(はぶ)家というのがありましたが、どこの史料か最初わかりませんでした。主にお金の貸し借りをしている証文なんですね。ずいぶんまとまったお金を貸しております。調べていくと常陸太田の羽部家らしいんですね。これは量がそんなに多くなくて、だいたい袋入れは終わったので後は目録を取ればいいんですが。
 それからこれも古書店から買ったんですが、鹿島郡の大洋村の旧梶山村の文書と思われるものがあります。これは主に帳面だけで、あまり量はないし袋には入れたんですが、史料自体はちょっと期待外れだったというか、もちろん文字が書かれたものは1点だけでも貴重なことは否定しませんけれども、しかし、ちょっと内容的には期待外れだった。というのは、その家がおそらく組合村の、組合村というのは文政時代に幕府が旗本領などに作らせたおよそ五十カ村位を1つずつの組合にした組合村ですが、その触頭というか総代を務めた家の史料だったので、そういうものがどんどん出てくることを期待してたんですが、ほとんど出てこなかった。
 ところが奇妙なことに、その文書の中にどう見てもその地域の史料とは思えない、しかも時期も違う、その梶山村の史料自体はほとんど幕末から明治初年のものだったんですが、天明頃の全然別の借金証文とか土地証文とかまとまって十数通入ってるんですね。それは違う家のものであるということがわかってきました。下野国の方の村方の史料が混入していたんですね。これはおそらく古書店で混ぜてしまったんではないかなと思うんですが、まあ付録だと思ってこれも大事に整理して保存しようとしております。そういう個々の史料についてはいくらでも話はあるんですが、この程度にしておきましょう。

7.大学図書館と古文書

 ただ、やはり大学の附属図書館としてはあまりこういう古文書を専門に集めて整理し、公開をする機関ではないということではありますので、ともかくあるものは大事にして、それを整理し保存し、一定の条件の下で公開をしていければと思っております。合わせて郷土史料双書という形で出していきたいと思うんですが、これも毎年館長先生、事務局をはじめいろいろとご迷惑をおかけしておりますけれども、やはり限られた予算の中で、なぜ郷土史料双書に予算を回さなくてはいかんのか、ということはいつも問題にされますので、それについてはともかく地域に立地する大学として、こういう形で郷土の史料の成果をいわば地域に還元するという意味でも必要な仕事ではないかということを申しあげている次第です。
 ただ、目録等につきましてはさきほどパソコンの話を申しあげましたけれども、冊子目録の刊行を必要不可欠とするかどうかについては検討の余地が出てまいりました。現在「中崎家文書」等については刊行を始めてますのでぜひ完成まで持っていきたいとは思ってますけれども、ではすべての文書目録を同じような形で出さなければならないかというと、それはちょっとわかりません。今後、パソコンがこれだけ普及してきてますので、パソコンにしっかりした目録を入力しておくと、それを遠くからでも見ることができる、あるいは検索ができるわけですから、検索をして「これこれの文書を見たい」ということを言ってこられればそれをお見せすると、そういう形になっていくのかなと思っております。それからもちろんプリントされた目録が欲しい人は、パソコンから自分が必要とする部分をプリントアウトして製本すれば立派な冊子目録になるわけですから、だいたいそういう方向に今後なっていくのではないかと思っております。
 その場合問題は、何でもかんでもデジタル化すればいいかというと、そうはいかない面があると思います。古文書というのは少しでも知ってる方はご存じだと思いますけれども、ともかくまず傷みやすいということですね。例えばここに同志社大学所蔵の明治9年の日記帳のコピーがありますけれども、これもかなり傷んでおりました。傷んでおりましたが補修してあるんですね。全部ではありませんが傷みのひどいところは裏打ちがしてあるんです。明治9年の文書であってさえもこれだけの傷みが進行しております。それをきれいに補修してあるんですが、やはり字がもう消えている所があります。これはコンピュータでも復元はできません。ですから古文書については傷みをなるべく進ませないとともに、ある程度傷んだものについては補修その他の手だてをして、それで傷みを食い止めるとともに、閲覧可能にすることが必要ではないかと思っております。現在図書館にある古文書の中にも傷みがひどくて開けたくても開けられないのがあるんですね。なんとか補修をしていただきたいと思って、時々館長先生をはじめ図書館の方にお話はしてるんですけれども、そういうものがいくつかありますし、また今後とも出てきます。ですから、いくら電子化しようとしても元がいかれてしまっていたのでは、電子化しても何にもなりません。
 それからもう一つは、古文書はどなたもが自由に読めるものではないということですね。別にこれは私なら読めるというわけでもなくて、私も読めないんでしょっちゅう「先生これ読めないの?」なんて学生に笑われるくらいですけれども、それでも20年、30年やっているとだいたい学生に写してもらって読めないところは「これは何だ」と聞かれるとぱっと言えるくらいにはなってきてますけれど、それでもまだまだ読めないですね。ですから古文書というものはなかなか読めないものなんです。読めないけれども、ある時代にある人々がちゃんと読めるように書いたはずなんですね。要するにその後我々が読めなくなってしまっただけなんですけれど、ともかく読めません。ですからそういう古文書の教育とか研究というのもなかなか大事だと思います。
 よく公立図書館などに参りますと、郷土指向だということで古文書講座を丹念に開いている図書館があります。あるいは郷土資料館があります。そういう所では最初のうちは講師の先生を招いてやっているんでしょうが、だんだん軌道に乗ってきますとグループができて参りまして、そのグループで自分たちは古文書が読めるようになったんだから何らかの形で生かしたいと、例えばその図書館に所蔵してある地域の重要な史料でまだ活字化されてないものがあると、じゃあそれを活字化しようじゃないか、という形でそういうグループが原稿を作る。原稿ができあがってくれば、図書館でも本にして刊行するぐらいの余裕はないわけではない、ということでそれを刊行する。もちろん刊行する際にですね、最初のうちはこういう古文書学習グループの成果ですので、いまひとつ自信がもてない所もあると、そういう時はその古文書講座を指導してくれた先生にでも少し目を通してもらう、とまあそういう方法もあると思うんですが、そういう形で古文書を読む人々を増やしていくことも必要なのではないかと思っております。高齢化社会がもうすぐそこまで来てるということですが、年輩の方には古文書学習というのは頭をフレッシュにするし、それからご自分の自信をつける、さらに自分の住んでいる地域への理解を深める上にも大変いい活動の一つではないかと思う次第です。
 以上、まとまらないお話に終始しましたけれども、茨城大学の図書館にも多少はいい古文書があるんだと、それを公開しようと努力してるんだということをご理解いただければと思います。今後とも一層のご理解とご支援をお願いしたいと思います。


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