水戸学

藤田東湖肖像画
藤田東湖 肖像画(茨城県立歴史館提供)

 18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになった。それが水戸学と呼ばれるものである。

 その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は藤田幽谷(ゆうこく)で、幽谷は寛政3年(1791)に「正名論」を著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えた。

 幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。正志斎は文政8年(1825) 3月、「新論」を著わした。

 『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。

 9代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。

 東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。

 要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。 そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのである。水戸学者には、前記の会沢正志斎藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいる。

水戸学入門書
『茨城県史』近世編(茨城県 1985.3)
『水戸市史』中巻(3 )(水戸市役所 1976.2)

もうすこし専門的なもの
『水戸学』(『日本思想大系』53)瀬谷義彦・今井三郎・尾藤正英著(岩波書店 1973.4)
『水戸藩学問・教育史の研究』鈴木暎一著(吉川弘文館 1987.3)

教育学部 鈴木暎一



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