幕末明治時代の水戸出身の史学者・国文学者、菅政友(文政7[1824]年〜明治30年[1897])の旧蔵書で,漢籍・国書、各種写本類など、約4,000部、10,000冊の一大集書である。和漢の古刊行本はもとより、水戸彰考館・修史館、東大と続いた学問研究や神官の経歴から生まれた各種の写本類からなる。昭和26年、茨城大学期成会によって、菅家から購入、寄贈されたもの。
下総国豊田郡加養村(現下妻市)名主稲葉家から寄贈された、近世・近代の村方史料で、地元の江連用水関係資料、同家の経営史料など、約9,000点。「稲葉家史料目録」(本学故河内八郎教授担当)全5冊が完成している。
常陸国那珂郡中岡村(現茨城県那珂市鹿島)で、代々庄屋を務めた中崎家から寄贈された近世・近代(1841〜1901)の村方史料。約13,000点。中崎家は近世中期以降、居村の庄屋、周辺村の兼帯庄屋、山横目(やまよこめ)などの役職を務める家柄であり、中崎家文書は近世村落の人口動態を知る上で貴重な資料となっている。中崎家文書目録(1)および中崎家文書目録(2)で約3,000点が整理済み。
常陸国那珂郡上河内村(現水戸市上河内町)の代々庄屋として、永く村政を担当した鶴田家の文書である。文録3年の検地帳は、常陸地域では貴重な史料とされている。また人別帳(延宝9年〜明治3年)は近世村落の人口動態を知るうえで参考となる。
常陸国久慈郡太田村(現茨城県常陸太田市太田)に居住した有力住民、羽部(はぶ)家に伝わる文書全112点。羽部家は太田村で商業・金融を営み、文書のほとんどは田畑・屋敷地などの土地売渡証文で、他に金子借用証文や金子受取証文が若干含まれている。年代は安永9(1780)年から明治6(1873)年までである。この文書群から在郷商人の金融活動や土地集積の過程を解明することができる。
下総国結城郡結城町(現茨城県結城市結城)の町名主宮田家に伝わる結城町方の文書80点である。主に御用留触書、産業経済運輸関係、宗門人別帳などが含まれるが、宮田家に大量にあったものの一部であると思われる。年代の上限は元文4(1739)年、下限は明治6(1873)年である。
江戸時代、水戸下町本四町目(現在の水戸市本町2丁目・柳町2丁目)の町名主を勤めた栗橋家に伝わる文書、100点。平成20(2008)年、栗橋俊久氏より寄贈。主な内容は明和〜安政年間(1760年代〜1850年代)までの栗橋家の由緒と当時の世相などをつづった「年代記」(日記)2冊と文政4年、天保13年、明治2年の「本四丁目人別改帳」各1冊(合計3冊)、町絵図、書状、願書、証文類など。
「大高氏記録」とは水戸城下上町馬口労町(現:水戸市末広町)の町年寄大高織衛門(当主は代々大高織衛門を襲名)が江戸後期の水戸の町の出来事を記した日記や御用留などの町方の記録である。全76冊。原本は東京大学史料編纂所に所蔵されており、茨城大学図書館で所蔵されているのは写本(第63冊目が欠本になっている)である。これは明治期に当時の太政官修史館(東京大学史料編纂所の前身)へ大高家から寄贈される前に筆写されたものとされている。かなり正確に筆写されている上、写本であるためか、読みやすいものとなっている。内容は嘉永5年〜明治元年までの日記15冊と文政年間以降の御用留類36冊、その他幕末の出来事の手控えなどの記録24冊である。なお、日記には毎日の寒暖計の測定記録なども記載されていて、当時の気象の状況がわかるようになっている。
中根平十郎正勝は徳川家家臣として三方ヶ原の戦いに参戦,天正18(1590)年相模国に1,000石を拝領,その子正時は関ヶ原の戦いに参戦した。寛永期,壱岐守正盛は大目付,御側御用(後の側衆)を勤め,5,000石を賜った。正盛は次男正章に1,000石を分知し,長男正致その子正冬は4,000石を知行した。地方直しの際,元禄元(1697)年12月に武蔵国橘樹郡・荏原郡の知行地に替り,常陸国茨城郡大泉村,堤上村,本郷村,真壁郡下高田村を拝領した。10年12月には上総国武射郡の知行地に替り,常陸国茨城郡吉原村,上押辺村を拝領した。その後,寛延4(1751)年10月(26日に宝暦に改元)に知行地の召し上げがあり,茨城郡大泉村(現在の桜川市大泉)ほか2か村2,000石となり,幕末を迎える。正芳は徳川慶喜が江戸から水戸へ下る際に臣従した。その子清八郎は旧水戸城中御殿に置かれた茨城拡充師範学校を卒業,大泉村の小学校教師となる。2013年,中根悦子氏より茨城大学図書館へ寄贈された。なお,中根正盛の書状は早稲田大学図書館などに所蔵されている。
当文書群は、茨城県石岡市の一色家に伝来したものである。ダンボール箱1・2は、2013年、茨城史料ネット(正式名称:茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク)の活動によって救済された史料群であり、古書店購入分は、茨城大学図書館が古書店より購入した史料群である(かつて一色家が所蔵していた史料群の一部と見られるため、一括して扱う)。いずれも茨城史料ネットが史料整理を行い、所蔵者の意向により、茨城大学図書館に寄贈されることとなった。
黒澤止幾子の遺品、和歌や俳諧の書など総計2,000点余。順次、目録整理中。黒澤止幾子は、文化3年(1806)、常陸国水戸藩領茨城郡高野村(現在の茨城県東茨城郡城里町錫高野)生まれ。幕末の動乱の中で、徳川斉昭の無実を直訴するため、単身京都に赴いた尊王の女性志士として知られている。また、85年の人生の半生を寺子屋の師匠として過ごし、明治5年の学制発布で小学校の女性教師となった。
「石神組御用留」は水戸藩の石神郡奉行所の文化6(1809)年の一年分の公用記録である(約2000頁)。この郡奉行所は、現在の茨城県那珂郡東海村石神外宿(いしがみとじゅく)に、水戸藩が設置していたものであり、茨城県日立市・東海村及びひたちなか市北部から常陸太田市・那珂市の一部を管轄していた。在郷に郡奉行所が置かれた時期の水戸藩農政の実態がよくわかる貴重な資料である。原本の傷みが激しかったため、茨城大学では平成13(2001)年に補修を実施、10分冊に分けて裏打ち製本を行った。平成21(2009)年2月、茨城大学と東海村が地域連携事業の一環として出版事業を計画、史料集『石神組御用留』(全2冊)(756頁、史料解説、人名・地名索引付)と研究報告集『水戸藩郡奉行と地域の人々―「石神組御用留」の世界―』を刊行した。
延宝5年(1677)〜慶応2年(1866)水戸下市(本町)の町年寄佐藤家の町方の記録全39冊。現在まで資料集「水戸下市御用留」として8冊が刊行されている。
歴史小説家、永井路子氏の本家(茨城県古河市)初代、八郎治が収集した江戸時代後期に広がった山岳信仰である不二講関係資料。