城下町水戸の変遷

 水戸城は那珂川とその支流桜川によって侵食された舌状台地の先端に位置し,台地の続く西側以外は水辺に囲まれた天然の要害であった。平安時代末期には馬場氏が館を構えたと伝えられ,室町時代の応永年間には江戸氏がここを本拠にしたといわれる。江戸氏を滅ぼした佐竹氏は文禄年間(1592~1602)に水戸城の修理・拡張を行い,本丸(現在,水戸一高)・二の丸(現在,茨城大学附属小・二中・水戸三高)・三の丸(現在,県庁・弘道館)・浄光寺曲輪(現在,水戸一高運動場)の原型が完成した。佐竹氏が出羽国秋田へ国替になると,徳川家康の五男,次いで十男が藩主となったが,実際には幕府代官伊奈備前守忠次が農政を執り行った。伊奈備前守の名に由来する備前堀は慶長15年(1610)に開削され,低湿地の新田開発,ならびに千波湖の水害を防止する役割をもっていた。

 家康の十一男頼房が御三家水戸藩主になると,寛永2年(1625)から15年にかけて,水戸城と城下町の大規模な拡張が行われた。手狭な本丸から二の丸に居館を移して大手橋を架け,三階櫓を建てた。この時の三階櫓は焼失したが,明和6年に再建され,その後銅葺き屋根に鯱を配し,昭和20年に戦災で焼失するまで水戸城のシンボルであった。台地上には五重の堀をめぐらし,城下町の一番西側の堀は現在の大工町の交差点である。また低湿地を埋め立てて,新たに下町を造成した。以来,台地部を上町,低地を下町と称し,水戸城下町は上町にも下町にも武家地と町人地を配する双子町の構造となった。

 上町は武家地が多く,町人地は上市とも呼ばれ,泉町・大工町の通りと,上金町・下金町・馬口労町の通り(現在の金町と五軒町の間)であった。下町の武家地は現在の常磐線北側の城東であり,町人地は下市とも呼ばれ,現在の本町一帯であった。下町の一軒ごとの地割とその間口・人名を記した「下町絵図」が残され,その一部は茨城大学附属図書館で所蔵している。

 町人地は職業によって集住し,材木商が集まった木町をはじめ,大工町・鍛冶町・紺屋町・塩町などがあり,職業が町名の由来であった。水戸はしばしば火災にあい,縁起を担いで町名を変更した例もある。木は火事に弱いので金のほうがよいと,本木町を上金町,新木町を下金町と改めた。泉町は本新町と称していたが,火災の後に水にちなんで泉町と改称している。また城下町の整備にともなって,寺院を上町から下町の北東端へ,あるいは上町の寺町・八幡町へと移転させ,城下町の周縁に配置した。

 九代藩主徳川斉昭は藩政改革を実施し,そのなかで城下町の整備も行っている。天保12年(1841)には三の丸の武家屋敷を移して弘道館を建築,また翌年には偕楽園を開いた。幕末から明治維新への激動の中で明治5年(1872)に水戸城は三階櫓を除いて焼失,17年には下町,19年には上町の大火によって,城下町水戸は近代都市へと転換していく。

 <参考文献> 『水戸市史 中巻1』,『水戸市史 中巻3』,『水戸市史 中巻5』

教育学部 小野寺淳



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