水戸藩の幕末争乱(天狗党の乱)と民衆

 水戸藩の尊攘派のなかでも、藤田小四郎(東湖の息子)・田丸稲之衛門らが率いる激派は天狗党とよばれた。彼らは文久3年(1863)ごろから攘夷の実行をとなえ、水戸藩の各地につくられていた農民の教育機関の郷校を拠点に活動し、元治元年(1864)3月筑波山に挙兵した。天狗党は宇都宮をへて日光の東照宮に参拝し、太平山をへて筑波山にもどった時には 700人に達していた。隊員の武器や衣食のために巨額の資金が必要になり、近辺の町村の役人や富商・豪農への強要にたよったため、天狗党の評判は急速に悪くなった。ことに天狗党との意見の違いから飛び出した田中愿蔵らが、軍用金の提出を拒んだ栃木町を焼き打ちしたことが、これに輪をかけた。 水戸藩内には、ゆるやかな改革をめざす尊攘派の鎮派と、尊攘派と対立する保守派もいた。保守派は市川三左衛門・朝比奈弥太郎らが藩校弘道館の学生らを結集して江戸にむかい、江戸藩邸の主導権をにぎった。弘道館の学生は諸生とよばれたので、以後保守派は諸生派とよばれた。筑波山の挙兵に直面した幕府は、田沼意尊を将とする部隊を派遣し、江戸藩邸の諸生派もこれにしたがった。下妻近くの戦闘で、天狗党の夜襲をうけて敗北後、諸生派は水戸にむかい、 水戸城にはいった。 この間に江戸藩邸の主導権をにぎった尊攘派鎮派は、藩主徳川慶篤にせまって藩内抗争を武力で収束することになり、支藩宍戸藩主松平頼徳を将とする部隊が水戸にむかった。これを大発勢という。天狗党の主力も筑波山から水戸にむかった。水戸の鎮派を結集した武田耕雲斎の部隊も江戸へむかう途中で、幕府軍に進路をさえぎられ、大発勢に合流した。水戸城に迫った大発勢は、諸生派に入城をこばまれ、やむなく那珂湊にしりぞいた。天狗党もここに接近して、大発勢を支援する姿勢をとった。幕府軍は水戸の諸生派と連携して大発勢を包囲し、松平頼徳を誘い出して切腹させた。幕府軍はさらに那珂湊の大発勢と天狗党に総攻撃を加えた。

 大発勢の過半は幕府軍に降伏したが、大発勢の残りと天狗党・武田軍は幕府軍と戦闘をまじえながら北へのがれ、大子で態勢を立直して、武田を首領にえらび、筑波挙兵組の田丸と藤田を副将とした。彼らは尊皇攘夷の目的を達成し、幕府軍とやむなく対戦した事情を朝廷に訴えるため、京都へむけ西上を開始した。元治元年10月末のことである。西上軍の総勢は1000人余りで、そのなかに隊員の家族とみられる4、5人の女性がいた。西上軍は幕府軍や諸藩の追撃を避けながら、真冬の下野・上野・信濃・美濃をへて、深い雪の峠を越して越前に到着した。この時彼らを待ち受けていたのは、水戸藩出身の徳川慶喜(禁裏守衛総督)が、朝廷の命をうけて西上軍を鎮圧するために出動したという報せだった。窮地に追い込まれた西上軍は金沢藩に降伏し、ついで敦賀の鰊蔵に収容された。徳川慶喜から鎮圧を引き継いだ田沼は、西上軍の約3分の1を処刑するという苛酷な処置をした。

 敦賀での処刑をまぬがれた西上軍の多く(約500人)が農民身分であったことでわかるように、水戸藩尊攘派の運動には多数の農民が参加していた。たとえば文久3年(1863)9月小川郷校での尊攘派集会の参加者名簿によれば、合計 701人の内訳は、農民 458人、村役人 163人、郷士43人などであった。郷校での尊攘思想の普及や軍事技術の練習が、周辺農村の農民を尊攘運動に動員することになったのである。一方、尊攘派の農民が挙兵・移動・交戦・西上などの行動に参加して村落を離れているあいだに、村々では反尊攘派の動きがたかまった。それは自村の防衛をめざして農兵的組織を結成するものと、尊攘派の上層農民の家を打ち壊す一揆に結集するものとがあった。こうして、水戸藩の尊攘派と保守派との抗争は、武士階級から農民階級にひろまり、明治維新にかけて、いやしがたい傷痕をのこすことになった。

[参考文献]
『茨城県史』近世編、茨城県、1985年
『水戸市史』中巻(四)・(五)、水戸市役所、1982・1990年
瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』山川出版社、1976年
木戸田四郎著『維新期豪農層と民衆ー幕末水戸藩民衆史研究ー』ぺりかん社、1989年
河内八郎著『幕末北関東農村の研究』名著出版、1994年
吉田俊純著『明治維新と水戸農村』同時代社、1995年
長谷川伸三他著『茨城県の歴史』山川出版社、1997年

人文学部 長谷川伸三



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