『うつほ物語考』解説
  田口 守

 「うつほ物語」研究は江戸時代に始まる。万治三年(一六六○)に巻頭の「俊蔭」のみが絵入三冊本として上梓され、その十七年後の延宝五年 (一六七七)に全巻絵入三十冊本が刊行された。しかしこの延宝版は「盗刊ト見エタリ」と評されるほどに巻序が混乱していたため、それを正す ことから江戸時代の研究は開始されたと言ってよい。続いて延宝板の補刻ともいわれる文化三年(一八○六)板が刊行されたが、本文はともかく 巻序が古本によって改められ、この物語が人々の前に初めてその全貌を現した。それと前後して、写本の書写、校合、系図年立、頭注形式による 語釈・考証、あるいは、それらを抜き出した語彙集のごときものも現れるようになる。
 本書はそうした流れを受けての「うつほ物語」の注釈考証の書である。タテ二三.六p×ヨコ一六.六pの袋綴本で、墨付一○三丁、表題は表紙に 直接「うつほ物語考」と墨書、一丁オ右肩にも「うつほ物語考」の内題を有している。まず、「目次」として巻名を並べ、それ以降の本文もそれ の巻名を掲げて語釈・考証に移っている。但し「目次」と本文中の巻序は一致しない。また本文中の巻名には、例えば「国譲下」のように「今板 本二十巻 古本二十の巻」のような文化三年板の題簽をそのまま写している。
 本書は巻頭の「俊蔭」巻を欠き、その巻序も文化板本のままでなく、前田家本『うつほ物語』に拠っていると見られる。
 本書の初め三巻分「藤原君」「たヽこそ」「梅の花かさ」は、「梅の花かさ」末尾の識語に(a)「天保三年六月一四日」とあり、「蔵ひらき 中」にも(b)「文政二卯のとし卯月廿二本多心水大人の本もて手つから写し終りぬ 伴直方」との奥書を持つ。さらに本書最後尾の「楼の上上 の二」の巻末にも次のような奥書が見え、本書の複雑な成立事情を窺わせる。
 注目すべきは(a)(b)(c)三つの奥書の年号が、(a)天保三年(1832)、(b)文政二年(1819)、(c)天明元年(178 1)・天明二年(1782)・寛政元年(1789)となって、(c)が古く、次いで(b)そして(a)と巻頭近くになるに従い新しくなるこ とである。本書の原型は奥書(c)から読み取れる。まず「寛政元年云々」は、山岡明阿(浚明)が一七八○年没であるからこれは彼の没後で、 「明阿(浚明)頭注本うつほ物語」(仮称)を片山足水が所蔵していた、それを恐らく伴直方が借り受けその翌年書写したと読める。それより先 の「天明元年云々」「天明二年云々」は、「明阿頭注本」がテキストとして使用した「うつほ物語」の奥書であろう。この「明阿頭注本」には「 楼の上上の二」以前の巻はなく、後日(b)奥書にいう本多心水所持本(これも「明阿頭注本」であろう)を借りて伴直方が書写して(c)の片 山足水所持本に加え、さらに(a)に当たる三巻(これは清水浜臣『空穂物語考証』)を補った、と解釈できる。本書全体を纏めたのは伴直方と みてよいであろう。
 本書と同系統の伝本に無窮会図書館神習文庫蔵『うつほ物語考証』(内題『うつほ物語考』)、東京大学附属図書館蔵『宇津保物語註解』があ る。なお研究文献としては、(1939年)安蔵菊二「空;物語二阿鈔と大久保本宇津保物語考証」『東洋文化』一七二号、(1979年)田口 守「茨城大学附属図書館蔵『うつほ物語考』の研究―所謂大久保本『宇津保物語考証』について―」『茨城大学教育学部紀要』二八号、(200 2年)正道寺康子『うつほ物語の総合研究2古注釈編T』(勉誠出版)所収「うつほ物語考証(大久保本)」・同解題などがある。
(常磐大学教授・元本学教育学部教授)
Last updated: 2003/ 3/ 4