『菅政友について』

 文政7(1824)年、町医である父正則、母広瀬コムの子として、水戸酒門村に生まれた。会沢正志斎、豊田天功、藤田東湖らの門に入り、天保14(1843)年水戸藩の藩校多賀郡大久保村(現在の日立市大久保町)暇脩館の主事となり、郷士に取り立てられた。
 弘化3(1846)年、国事に座して職を免ぜられたが、安政元(1854)年復職した。安政5(1858)年史館(彰考館)館員となり、その後文庫役に進み、明治2(1869)年栗田寛・津田信存とともに国史編集に任ぜられた。この間、主として『大日本史』の「志」「表」の編集に従事した。
 維新後は、神官となり、さらにその後の明治10(1877)年太政官修史館に勤務したが、官制の改定に伴い、帝国大学書記となった。そこでは臨時編年史編纂掛を命じられた。
 明治23(1890)年、職を辞して水戸に隠棲、明治30(1897)年に没した。74歳だった。水戸の酒門共同墓地に葬られた。
 斉昭擁護派の一員であり、水戸史学の考証的学風を受け、古代史の領域でも注目すべき論考を発表している。主な論著は『菅政友全集』全1巻に収められている。
(本稿は『国史大辞典』、本学の故河内八郎教授の論文等を参考にした)


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Last updated: 2001/ 3/26 16:00